ツイッターはテレビそのものであるということに気付くなど

ちょっと毒入り、ちょっと自虐。

 

ツイッターって、要はテレビそのものなんだよね。

 

昔、カウチポテトなんて言葉があったけれど、そのまんまだ。かつて人々は、ソファに寝そべったままリモコンでチャンネルを変えながら、テレビから延々と垂れ流される番組を眺めて時間を潰した。テレビは随分つまらなくなったけれど、もしかしたら、今もそうしている人がいるのかも知れない。笑いあり、涙あり。理不尽に腹を立て、世界のありようを分かった気にさえなる。

学生時代の一時期、僕もそうやって日々を過ごしたことがあるけれど、気が付いたら、ここ何年かはツイッターで同じことをしていた。端末はテレビからタブレットに変わり、発信者も少数のテレビ局から多数の人々に変わり、さらに、自分自身が発信することもできるようになったけれど、本質の部分は同じだ。暇さえあれば手元の端末を眺め、モニターの中を流れ続けるツイート=番組から興味のあるものを拾い、消費し、そして忘れるという作業を延々とやってきただけだ。カウチにいなくても、カフェや電車の中、或いはトイレや風呂の中でさえも端末を持ち込んで"視聴"ができるようになって、良く言えばより便利に、悪く言えばより束縛されるようになった。


テレビだから、ツイッターはそれ自身の中で閉じたものになる。

ツイッターに適したコンテンツは写真、イラスト、短い動画、ヘッドライン程度のごく短い言葉。膨大な数のツイート(=番組)が流れてくるから、パッと見て理解できるものが好まれる。パッと見て、感情誘導を受ける。喜怒哀楽というごほうびを受け取ったら、すぐさま次へ。際限なくこれを繰り返す、お手軽な娯楽だ。

ゆえに、ツイッターの外側のウェブの世界なんて、存在しないのと同じになる。外部サイトへの誘導は、リズムを乱すノイズでしかないし、ましてや、うっかりリンクを踏んだ先が長文記事だった日には目も当てられない。リアルワールドも、日常の外側にあるものは存在しないのと同じになる。外に出かけるなんて面倒なことをしなくたって、ツイッターがお手軽に全てを与えてくれる。笑いあり、涙あり。理不尽に腹を立てる。美味しいものを食べた気になり、世界を旅して回った気にさえなる。参加型だから、自らヘイトを撒き散らしてみたり、或いは善行をした錯覚さえ得られたりもする。ツイッターの中の疑似体験で満足してしまえば、外の世界に関心など持たなくなるし、まして、日常から出ようなんて思わなくなる。これもテレビと同じだ。

 

かくして、ツイッター・フォアグラの一丁上がり。僕自身の話だ。生産性などない、発信時にちっぽけな承認欲求を満たし、受信時はただ消費するだけの世界。

 

あとはゲームがあれば完璧だ。テレビの時代はファミコンスーファミメガドラ、サターン、プレステなどの据え置き型ゲーム機。今はソシャゲ。モニターを共有する構図も寸分違わない。テレビとゲーム、或いはツイッターとゲーム。受動と能動の2つの娯楽が揃えば、24時間戦える。

 

ツイッターの外でブログを立ち上げることで、ツイッターを外から見る視点をやっと獲得し、文字制限という、実は思考制限である枷を外して思考を巡らせた結果、こんな風に思い当たった。

 

気付いたということは、潮時でもあるのだろうね。意識の重心を、ツイッターの外側へ引き戻そう。そして、本来なすべきことをなそう。いや、なすべきことをなす、ではないな。そんなのはつまらない。自分にとって本当に楽しいことを、面倒を厭わずにやっていこう、と表現するのが正解か。